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2008/03/26のBlog
[ 21:30 ]
[ 言葉のノート ]
最初はちくっとするだけで、さほど気にならない。
だが、積み重なってくると、小さな棘の痛みすら我慢できなくなる。
普段は小さい事で怒らない人でも
それが積み重なると、ちょっとした些細な事でも過敏になってしまう。
そんな時、「こんな小さな事で怒らなくても」と思ったりもするが
それは今までの自分の行いが積み重なった結果かも知れない。
仏の顔も三度までと言うように
塵も積もれば山となるわけで
どんな我慢強い心の広い人でも堪忍袋の尾が切れる事もあり
小さなミスも重なると取り返しの無い事態を起こしてしまうのだ。
とりあえず、小さな棘でも気をつける事から始めたい。
[ 19:43 ]
[ コンマ2秒のカタチ ]
前々から練習しようと思っていた事があるが
なかなか、いざやろうと思うと
これがなかなか出来ないモノだ。
そして後でやろう後でやろうと先延ばしにしてしまい
結局、やらないまま時が過ぎ去り
気づいた頃には、その気持ちすら無くなっている事が多い。
練習したいなと思った時こそ、自分の興味のピークなのだ。
このピークの時点から始めようとするまでの間
時間が刻む度に、どんどん興味が薄れていく。
なぜなら、自分の意識の中に
練習=辛い
のイメージが植えつけられているからだろう。
人間誰でも最初からうまく出来る人はいない。
例え最初からうまく出来ても必ずどこかで壁にぶち当たるモノだ。
結局モノを言うのは努力とそれを維持できる根気になる。
だが、練習を続ける事で自分が上達したと言う実感を味わえたなら
それが練習へのモチベーションに繋がる。
そして上達の実感こそが辛い事でも続ければ
自分はどんどん上達すると言うイメージを新たに植えつける。
そうなれば占めたものだ。
練習=上達
のイメージとなり、どんどん練習する意欲が増加する。
ただし、練習をただ持続して続けたとしても
ある一定のレベルまで到達すると一気に上達速度が落ちる。
ここでモチベーションを維持できるかが分かれ道になる。
これ以上は無理とあきらめて、現状に満足してしまうか
まだまだ自分は上を目指せると努力し続けるか
自分の限界がここでは無いのか?その思いがよぎった時
壁と呼ばれるモノが現れるのだ。
短距離走の選手は
自分のベスト記録の0.01秒でも縮める。
その為だけに毎日毎日練習を積み重ねる。
そして、それはどんどん練習のイメージをマイナスの方向に持っていくだろう。
それでも、記録と言うモノは練習をしたからと言って伸びるものでない。
次第にそれが知らずに自分へのプレッシャーとなる。
スランプと呼ばれるモノもそう言った精神的なイメージによる弊害なのかも知れない。
それでも、練習を、努力を続けられる人は
その辛さの先にある自分の限界を突破した時の達成感を
味わってしまった人なのだろう。
一度勝利の美酒を味わった人は、その魔力から逃げられない程、虜になってしまう。
楽しく練習を、努力を続ける事が出来れば何も問題ないのだろう。
だけど、なかなかそんなに美味しい話も無いワケで
とりあえず、自分の中で目標を決めて頑張り続けるしかない。
ただ、練習を積み重ね、その努力が報われた時の達成感は
ナニモノにも変えがたいほど格別で
何とも言えない程、心晴れやかになるものだ。
なかなか、いざやろうと思うと
これがなかなか出来ないモノだ。
そして後でやろう後でやろうと先延ばしにしてしまい
結局、やらないまま時が過ぎ去り
気づいた頃には、その気持ちすら無くなっている事が多い。
練習したいなと思った時こそ、自分の興味のピークなのだ。
このピークの時点から始めようとするまでの間
時間が刻む度に、どんどん興味が薄れていく。
なぜなら、自分の意識の中に
練習=辛い
のイメージが植えつけられているからだろう。
人間誰でも最初からうまく出来る人はいない。
例え最初からうまく出来ても必ずどこかで壁にぶち当たるモノだ。
結局モノを言うのは努力とそれを維持できる根気になる。
だが、練習を続ける事で自分が上達したと言う実感を味わえたなら
それが練習へのモチベーションに繋がる。
そして上達の実感こそが辛い事でも続ければ
自分はどんどん上達すると言うイメージを新たに植えつける。
そうなれば占めたものだ。
練習=上達
のイメージとなり、どんどん練習する意欲が増加する。
ただし、練習をただ持続して続けたとしても
ある一定のレベルまで到達すると一気に上達速度が落ちる。
ここでモチベーションを維持できるかが分かれ道になる。
これ以上は無理とあきらめて、現状に満足してしまうか
まだまだ自分は上を目指せると努力し続けるか
自分の限界がここでは無いのか?その思いがよぎった時
壁と呼ばれるモノが現れるのだ。
短距離走の選手は
自分のベスト記録の0.01秒でも縮める。
その為だけに毎日毎日練習を積み重ねる。
そして、それはどんどん練習のイメージをマイナスの方向に持っていくだろう。
それでも、記録と言うモノは練習をしたからと言って伸びるものでない。
次第にそれが知らずに自分へのプレッシャーとなる。
スランプと呼ばれるモノもそう言った精神的なイメージによる弊害なのかも知れない。
それでも、練習を、努力を続けられる人は
その辛さの先にある自分の限界を突破した時の達成感を
味わってしまった人なのだろう。
一度勝利の美酒を味わった人は、その魔力から逃げられない程、虜になってしまう。
楽しく練習を、努力を続ける事が出来れば何も問題ないのだろう。
だけど、なかなかそんなに美味しい話も無いワケで
とりあえず、自分の中で目標を決めて頑張り続けるしかない。
ただ、練習を積み重ね、その努力が報われた時の達成感は
ナニモノにも変えがたいほど格別で
何とも言えない程、心晴れやかになるものだ。
2008/03/25のBlog
[ 21:45 ]
[ 言葉のノート ]
耳が良くて、記憶力が良くて、それを上手く使う事が出来れば
だれでも軍師になれる。
耳が良いのは、情報収集能力にすぐれている事。
記憶力が良いのは、情報を常に整理でき常に引き出せる事。
そして、その情報で状況に合わせて臨機応変に策を講じる事。
これが軍師の戦略の基礎だそうだ。
まぁ、そこまでは出来なくても
常に情報を集めて、それを何かの拍子で思い出せるだけでも
いざと言う時に役に立つ。
知識だけや記憶力だけや判断力だけに偏っている人よりも
平凡でも3つ揃っている人のほうが汎用性の有る人なのだろう。
[ 19:51 ]
[ コンマ2秒のカタチ ]
自分は昔、ジェットコースターが怖かった人間だ。
もっと言うと、学校の予防注射も怖かったし
特撮ドラマで主人公が敵組織に改造されるシーンを見てから特撮を見なくなったりと
とても怖がりだった人間だ。
まぁ、今ではジェットコースターは大好きで連続で乗りまくるし
注射なんて針刺すんだから痛いのは当たり前と開き直ってるし
映画なんてホラー物をがんがん見に行くぐらいである。
自分でも驚くほどの変わりようだ。
まぁ、きっかけは
怖い怖いと思って乗ったジェットコースターが思っていたほど怖くなかった。
それどころか逆に面白いとさえ思った事だろうか。
まぁ、ジェットコースターにしても注射にしても怖い映画にしても
経験するまで怖いと言うイメージを増幅しすぎて
自分で恐怖心を煽ってしまっていたが原因だろう。
だから、一度経験してしまうと
あれ?こんなもんだっけ?と驚くほどあっけなかったりするものだ。
むしろ逆に楽しみを見出してしまうのかも知れない。
世の中には怖いモノ見たさと言う好奇心がある。
怖いけど、どれぐらい怖いのだろう?
と言う興味が実際に行動に移す。
そして恐怖を味わった後のドキドキ感が逆に面白く感じてしまうのだ。
しかし、それとは別に人間は恐怖を抱くのが当たり前の生き物だ。
未体験、初体験、責任とプレッシャーのかかる場面、自分が傷つく恐れのある時。
様々な場面があり、人それぞれではあるのだが
人は不安と恐怖を抱く時が必ずある。
それは自分に心があるのだから当然の事だ。
恐れを抱かない人間は馬鹿である。と言う言葉が有ったと思うが
人は自分の目の前にある恐怖を恐怖と認識出来ない事程、怖いモノは無い。
なぜなら、怖いモノ知らずである程、取り返しのつかない落とし穴にはまり易いのだ。
それは危険であると識別、もしくは判断する能力が無ければ
極端な話、自分の生死に関わる場面に出くわしても、生死に関わる事だと判断出来ないのである。
怖いと思う事は大切だ。例え怖いと感じて体がすくんでしまったとしても
それを回避するか、恐怖を覚悟で立ち向かうかを選ぶ事が出来る。
その時は、きっと体がすくんでしまって何も出来ないだろう。
しかし、その出来事が後悔に繋がり、経験になる。
次こそはと思う事が出来れば
次は恐怖こそしても以前より少しは前向きなはずである。
最初から怖いと思わない人間はいないし、経験を重ねるにつれて怖さが無くなり
初めて面白さ、楽しさがわかるものである。
怖いモノは怖いのはしょうがない。
でも、やる前のイメージから怖いと思うのはもったいない事だ。
まぁ、じゃあバンジージャンプとかスカイダイビングして見ろ!
と言われるとやっぱり怖い(笑)
なんでも、いきなりは心の準備が出来ないのである。
とりあえず、自分が何か怖いと思う事があり克服しようと思うなら
その恐怖に対して小さな事でもいいので、少しづつ耐性をつけて行く事。
それが恐怖を克服する鍵となるはずだ。
もっと言うと、学校の予防注射も怖かったし
特撮ドラマで主人公が敵組織に改造されるシーンを見てから特撮を見なくなったりと
とても怖がりだった人間だ。
まぁ、今ではジェットコースターは大好きで連続で乗りまくるし
注射なんて針刺すんだから痛いのは当たり前と開き直ってるし
映画なんてホラー物をがんがん見に行くぐらいである。
自分でも驚くほどの変わりようだ。
まぁ、きっかけは
怖い怖いと思って乗ったジェットコースターが思っていたほど怖くなかった。
それどころか逆に面白いとさえ思った事だろうか。
まぁ、ジェットコースターにしても注射にしても怖い映画にしても
経験するまで怖いと言うイメージを増幅しすぎて
自分で恐怖心を煽ってしまっていたが原因だろう。
だから、一度経験してしまうと
あれ?こんなもんだっけ?と驚くほどあっけなかったりするものだ。
むしろ逆に楽しみを見出してしまうのかも知れない。
世の中には怖いモノ見たさと言う好奇心がある。
怖いけど、どれぐらい怖いのだろう?
と言う興味が実際に行動に移す。
そして恐怖を味わった後のドキドキ感が逆に面白く感じてしまうのだ。
しかし、それとは別に人間は恐怖を抱くのが当たり前の生き物だ。
未体験、初体験、責任とプレッシャーのかかる場面、自分が傷つく恐れのある時。
様々な場面があり、人それぞれではあるのだが
人は不安と恐怖を抱く時が必ずある。
それは自分に心があるのだから当然の事だ。
恐れを抱かない人間は馬鹿である。と言う言葉が有ったと思うが
人は自分の目の前にある恐怖を恐怖と認識出来ない事程、怖いモノは無い。
なぜなら、怖いモノ知らずである程、取り返しのつかない落とし穴にはまり易いのだ。
それは危険であると識別、もしくは判断する能力が無ければ
極端な話、自分の生死に関わる場面に出くわしても、生死に関わる事だと判断出来ないのである。
怖いと思う事は大切だ。例え怖いと感じて体がすくんでしまったとしても
それを回避するか、恐怖を覚悟で立ち向かうかを選ぶ事が出来る。
その時は、きっと体がすくんでしまって何も出来ないだろう。
しかし、その出来事が後悔に繋がり、経験になる。
次こそはと思う事が出来れば
次は恐怖こそしても以前より少しは前向きなはずである。
最初から怖いと思わない人間はいないし、経験を重ねるにつれて怖さが無くなり
初めて面白さ、楽しさがわかるものである。
怖いモノは怖いのはしょうがない。
でも、やる前のイメージから怖いと思うのはもったいない事だ。
まぁ、じゃあバンジージャンプとかスカイダイビングして見ろ!
と言われるとやっぱり怖い(笑)
なんでも、いきなりは心の準備が出来ないのである。
とりあえず、自分が何か怖いと思う事があり克服しようと思うなら
その恐怖に対して小さな事でもいいので、少しづつ耐性をつけて行く事。
それが恐怖を克服する鍵となるはずだ。
2008/03/24のBlog
[ 22:10 ]
[ 言葉のノート ]
笑って、泣いて、怒ったり、感情を共にするほど想いは成長していく。
そして時間を重ねるほど想いは確かなカタチをつくってゆく。
想いは、感情と共に育っていく。
その時は何気なく笑った事も泣いた事も怒った事も
全部、大切で特別な物に変わっていく。
想いは積み重なる。
時間が経つほどどんどん積み重なり重くなるのだ。
ある程度の重さを持った時、それはひとつのカタチになる。
自分の本当の気持ちと言うカタチに。
[ 19:14 ]
[ コンマ2秒のカタチ ]
人の思考は面白いもので
様々な発想や想像、考え方から妄想にしても
すべて人それぞれであると言う事だ。
例えば、頭のいい人は些細なきっかけだけで解答に辿り着いたり
ひねくれモノな人は、まったく違う見方で物事を捉える等
人の思考回路はそれぞれによって違うのだ。
それは瞬間的なモノでも同じで
特にすれ違いや勘違い等も思考回路の違いから生まれる物だろう。
そして、それは頭に残留するイメージの影響も大きい。
例えば、先ほどまで虫に関する本を読んでいて
急に誰かにクモを見て、と言われたら
空の雲よりも虫の蜘蛛を探すだろう。
これは手品でも良く使われる手法で、思考パターンの刷り込みだ。
何度か同じパターンを繰り返す事で次もこうなるだろうと
脳内で勝手に想像してしまう。
しかし、手品等の場合は意表を突くのが商売だから
当然、期待を裏切る大技を披露する。
そうする事で、不意打ちを受けた脳内がよりいっそう凄いと感じてしまうのだ。
ただ、手品を見る事に慣れてしまった人にとっては
最初の技は前振りで、後に大技が来るぞと
予想してしまうので、逆にああやっぱりと来たかと思う事が多いかもしれない。
とまぁ、手品でも使われるぐらいの事だから
人と人とのコミュニケーションになってくると
この勘違いやすれ違いは多くなってくる。
それいいよな?と言われて指差された先にある物が
自分のお気に入りのストラップで
気分良くしていたら、実はそのお気に入りのストラップでは無く
携帯本体だったとか
実によくある勘違いだ。
そして、お互いが気を使いすぎて、すれ違ってしまうお互いの気持ちもあるだろう。
有名な話では「賢者の贈り物」だ。
懐中時計を大事にしている男性とロングヘアーが美しい女性が
お互い贈り物をしたいと考えるもお金が無い。
そこで、男性は大切な懐中時計を売って櫛を買い
女性は長い髪の毛を売って、懐中時計の鎖を買った。
結局、贈り物は意味を無くしてしまったがお互いの気持ちを
逆に確かめ合ったと言うお話である。
この話はうまくハッピーエンドであるが
実際、すれ違ってしまって取り返しのつかない事になった人もいるだろう。
人の思考は、自分の考え方とは違う。
よかれと思っての行動も、人にとっては迷惑になる。
なんで悪いのかわかっていなくても、世間一般では非難される事もある。
自分が要望したお願いと違う事をしてしまう人もいる。
だからこそ、人は人、自分は自分と思える気持ちと
それでいて、自分の行動を振り返って冷静に考える気持ちの両方を持ちたい。
きっと二つの気持ちはすれ違う様に、全然違う考え方になるのだろうが
それでこそ、迷って悩む事で、相手の立場と自分の立場を把握できる。
自分にも勘違いすれ違いはあり、それは他人も同じ。
だけども、それを恐れて思考するのをやめてしまってはダメだ。
決して100%の正解なんて無いのだから
その時、自分の一番良いと思う考え方を信じればいい。
様々な発想や想像、考え方から妄想にしても
すべて人それぞれであると言う事だ。
例えば、頭のいい人は些細なきっかけだけで解答に辿り着いたり
ひねくれモノな人は、まったく違う見方で物事を捉える等
人の思考回路はそれぞれによって違うのだ。
それは瞬間的なモノでも同じで
特にすれ違いや勘違い等も思考回路の違いから生まれる物だろう。
そして、それは頭に残留するイメージの影響も大きい。
例えば、先ほどまで虫に関する本を読んでいて
急に誰かにクモを見て、と言われたら
空の雲よりも虫の蜘蛛を探すだろう。
これは手品でも良く使われる手法で、思考パターンの刷り込みだ。
何度か同じパターンを繰り返す事で次もこうなるだろうと
脳内で勝手に想像してしまう。
しかし、手品等の場合は意表を突くのが商売だから
当然、期待を裏切る大技を披露する。
そうする事で、不意打ちを受けた脳内がよりいっそう凄いと感じてしまうのだ。
ただ、手品を見る事に慣れてしまった人にとっては
最初の技は前振りで、後に大技が来るぞと
予想してしまうので、逆にああやっぱりと来たかと思う事が多いかもしれない。
とまぁ、手品でも使われるぐらいの事だから
人と人とのコミュニケーションになってくると
この勘違いやすれ違いは多くなってくる。
それいいよな?と言われて指差された先にある物が
自分のお気に入りのストラップで
気分良くしていたら、実はそのお気に入りのストラップでは無く
携帯本体だったとか
実によくある勘違いだ。
そして、お互いが気を使いすぎて、すれ違ってしまうお互いの気持ちもあるだろう。
有名な話では「賢者の贈り物」だ。
懐中時計を大事にしている男性とロングヘアーが美しい女性が
お互い贈り物をしたいと考えるもお金が無い。
そこで、男性は大切な懐中時計を売って櫛を買い
女性は長い髪の毛を売って、懐中時計の鎖を買った。
結局、贈り物は意味を無くしてしまったがお互いの気持ちを
逆に確かめ合ったと言うお話である。
この話はうまくハッピーエンドであるが
実際、すれ違ってしまって取り返しのつかない事になった人もいるだろう。
人の思考は、自分の考え方とは違う。
よかれと思っての行動も、人にとっては迷惑になる。
なんで悪いのかわかっていなくても、世間一般では非難される事もある。
自分が要望したお願いと違う事をしてしまう人もいる。
だからこそ、人は人、自分は自分と思える気持ちと
それでいて、自分の行動を振り返って冷静に考える気持ちの両方を持ちたい。
きっと二つの気持ちはすれ違う様に、全然違う考え方になるのだろうが
それでこそ、迷って悩む事で、相手の立場と自分の立場を把握できる。
自分にも勘違いすれ違いはあり、それは他人も同じ。
だけども、それを恐れて思考するのをやめてしまってはダメだ。
決して100%の正解なんて無いのだから
その時、自分の一番良いと思う考え方を信じればいい。
2008/03/23のBlog
[ 21:08 ]
[ 言葉のノート ]
覚悟していても気持ちが揺らぐのは、ココロがある以上仕方が無い。
それでも、一度覚悟したのならば、振り返るべきでない。
苦渋の決断を下した。
それでも、ホントに良かったのかココロに迷いは残る物。
きっぱりと切り替えれる人間はそういない。
それでも、前に進むしかないのなら
振り返らずに進むしかない。
覚悟するとはそう言う事だ。
迷わず進もう。自分の気持ちは決まったのだから。
[ 17:24 ]
[ コンマ2秒のカタチ ]
以前、友人のyasu-box(以下、ヤスボ)が
「【.2s】のタイトル画像の作成とかレイアウトの紹介とか自分がしたから
最近、自分のブログと勘違いする(笑)」
とか、突然言い出した。
まぁ、ヤスボが作ったタイトル画像だし
その他もろもろ、立ち上げ当初からイロイロ格別のお世話をして貰っているから
ブログに愛着が湧くのはわからなくもない。
でヤスボ曰く、勝手に寝てる間に記事が出来上がってる心境だそうだ。
「じゃあ、k-stord小人頑張って記事書いといて(笑)」
最早、グリム童話「小人とクツ屋」の小人扱いなk-stord。
そして、そのk-stord小人は
最近、Doblog限定ブログ紹介の「Doblogの風~ブログ紹介所~」の
ブログ紹介記事のリサーチ&作成も手伝わされている。
なんと言うか、ヤスボは小人使いが荒い事この上ない存在である(笑)
と、冗談はこの辺にしておいて
その会話をしてから、コンマ2秒で思いついた事があった。
それは上記の話で出てきた「小人」の存在についてだ。
先の「小人のクツ屋」の話はグリム童話にある童話のひとつで
貧乏なクツ屋が皮をクツの形だけにして寝てしまうと
何故か朝起きたらクツが出来上がっていると言う話である。
そして、それを作っていたのが二人の小人なのだ。
しかし、小人と呼ばれる存在は
有名どころで「小人とクツ屋」、「白雪姫」、「ガリバーの冒険」
他にもイロイロと小人と総称されるものがあり
あまり統一されていない様に感じる。
しっかりとした小人の定義が無いのだろうか。
童話や昔話で出てくる小人は
髭の長いずんぐりむっくりのお爺さんだが
それを小人の全てのイメージとするのは釈然といかないものがあった。
では、小人とはどう言った存在を示すのか調べてみた。
童話や伝承で登場する小人と呼ばれる存在は、伝説の生物として分別されている。
その中で、世界各地の伝承や伝説に登場する小型の人間。
人間に近い容姿を持つ妖精が小人と呼ばれるそうだ。
伝説上の小人と言われると、ふと思い浮かぶのはコロボックルだろう。
コロボックルはアイヌ神話に登場する小人で、「露の葉の下の小人」と言う意味らしい。
コロボックルはアイヌと呼ばれる民族に伝承されていて
主に北海道や南千島、樺太に広く流布されている。
その中でコロボックルは、アイヌ民族が住み始める前の先住民で背丈が低く、動きがすばやい漁の上手い存在だったらしい。
自分の認識ではコロボックルの存在は精霊に近い物と解釈していたのだが、それはどうやら後世の物語等の影響が大きいようだ。
他に小人と呼ばれる存在は日本では有名な一寸法師が出てくる。
一寸法師は日本のお伽噺の一つで御伽草子に掲載された物が元になっている。
その中では、一寸法師は身の丈3cmとされている。
縫い針を腰に刺して刀にするぐらいであるから、それぐらい小さいのだろうと考えるも
3cmでは、普通に人から相手にして貰うどころか、見世物になっておしまいな気もする。
だが、一寸法師の話は昔話で話されている一般の一寸法師よりも
御伽草子に掲載されているのは少し現実的な話らしい。
まず、一寸法師は一向に成長しない身体をコンプレックスに思って家出する。
(どうもネガティブ王子だったらしい。)
家出して京に渡り、宰相の娘に一目惚れする。
そこで一寸法師は自分の小さな身体では姫を妻に出来ないと思い込み一計を案じる。
(さすがネガティブ王子は腹黒である。)
まんまと罠にかかった宰相と姫は一寸法師に騙されて疎遠になり
一寸法師と姫は共に宰相の家から家出する。
(一寸法師的には、しめしめである。)
その旅先で不気味な島につき、鬼に出くわした。
鬼は一寸法師を食べるも一寸法師は鬼の目から逃げ出してくる。
(食べられては目から脱出と言う不気味なループがしばらく続く。)
根負けした鬼は「今日はこの辺にしといてやるぜ!」と
打ち出の小槌をほり投げて逃げる。
(鬼の威厳がまるで無い。ちんぴらA状態である。)
一寸法師の武勇伝は世間に広まり
(と言うか自分で広げたんだろう。まさに策士である。)
そんでもって帝に取り入って中納言まで出世するのである。
自分的解釈が有る程度入っているが、それでもクリーンな話では無い。
どちらかと言えば一寸法師は今風のサクセスストーリーだったみたいだ。
そして世間一般では有名な妖精としての小人。
ドワーフ、トロール、エルフ、フェアリー、ホビット、スクナビコナあたりだろう。
ドワーフは北欧やドイツ語圏に住む小人で、物語や伝承によって異なるも
統一されているイメージは背が低くて屈強で長い髭がある事だろうか。
北欧神話では、神々と対立する存在でありながら対価に応じて魔力のある武器や宝具を作る職人に位置する。
童話の白雪姫に登場する7人の小人は英語ではドワーフと訳されている。
民間伝承のドワーフでは立った姿勢のまま腕が地面につくほど長いらしい。
あの有名な指輪物語でも有名なドワーフは鍛冶屋であり、屈強なヒゲのおじさんのイメージがつよいみたいだ。
続いてトロールはスカンジナビア半島に住む小人の妖精で丘や土手、塚などに住む。親切だが盗癖がある困ったちゃんだそうだ。
ノルウェーの伝承で登場する要請の一種で、様々な説が存在する。
その中でも鼻や耳が大き醜い存在らしい。
しかし、一般的なイメージでは小人のイメージよりも巨漢で怪力な知能の低いイメージが定着しているトロール。
今でもトロールの存在はノルウェーでは信じられている事が多く、日常でふと物が無くなると「トロールのいたずら」と言うそうだ。
エルフとフェアリーは個人的に小人と言うよりも妖精としての認識が大きく、世間でもその認識が強い。
しかし、森の小人として存在する事も多い存在だ。
そう言った認識では、小人とエルフ・フェアリーの定義は曖昧なのかも知れない。
ホビットは架空の種族である。
J・R・R・トールキンの作品「ホビットの冒険」や「指輪物語」に登場し
身長は60~121cmで平和と食事をこよなく愛する種族だ。
ホビットたちは、トールキンのインスピレーションである英国の田舎の人々と同様に酒場でエールを飲む事を好むそうだ。
そしてスクナビコナである。
スクナビコナは日本神話に登場する神である。
古事記と日本書紀では若干違いが生じるが、身体が小さくて敏捷、忍耐力が有り、大国主と協力して国を造ったとされる。
一説には知恵の神とされ、医療、医薬の知識に優れていたそうだ。
小人と呼ばれる存在は多種多様で、一般に認識しているイメージは
人間よりも小さい存在である。
しかし、その小人と呼ばれた存在は様々な伝承や説話や物語に登場し
それらの世界で重要な役割を果たしている。
世間的なイメージとは違う一面を持つ小人達の存在に興味が増すばかりだ。
とりあえず、ヤスボにとってk-stord小人と言う存在は
せっせとヤスボの代わりに仕事をこなす様な可愛い存在では無く。
一寸法師のような腹黒い存在である事は間違いないだろう(笑)
「【.2s】のタイトル画像の作成とかレイアウトの紹介とか自分がしたから
最近、自分のブログと勘違いする(笑)」
とか、突然言い出した。
まぁ、ヤスボが作ったタイトル画像だし
その他もろもろ、立ち上げ当初からイロイロ格別のお世話をして貰っているから
ブログに愛着が湧くのはわからなくもない。
でヤスボ曰く、勝手に寝てる間に記事が出来上がってる心境だそうだ。
「じゃあ、k-stord小人頑張って記事書いといて(笑)」
最早、グリム童話「小人とクツ屋」の小人扱いなk-stord。
そして、そのk-stord小人は
最近、Doblog限定ブログ紹介の「Doblogの風~ブログ紹介所~」の
ブログ紹介記事のリサーチ&作成も手伝わされている。
なんと言うか、ヤスボは小人使いが荒い事この上ない存在である(笑)
と、冗談はこの辺にしておいて
その会話をしてから、コンマ2秒で思いついた事があった。
それは上記の話で出てきた「小人」の存在についてだ。
先の「小人のクツ屋」の話はグリム童話にある童話のひとつで
貧乏なクツ屋が皮をクツの形だけにして寝てしまうと
何故か朝起きたらクツが出来上がっていると言う話である。
そして、それを作っていたのが二人の小人なのだ。
しかし、小人と呼ばれる存在は
有名どころで「小人とクツ屋」、「白雪姫」、「ガリバーの冒険」
他にもイロイロと小人と総称されるものがあり
あまり統一されていない様に感じる。
しっかりとした小人の定義が無いのだろうか。
童話や昔話で出てくる小人は
髭の長いずんぐりむっくりのお爺さんだが
それを小人の全てのイメージとするのは釈然といかないものがあった。
では、小人とはどう言った存在を示すのか調べてみた。
童話や伝承で登場する小人と呼ばれる存在は、伝説の生物として分別されている。
その中で、世界各地の伝承や伝説に登場する小型の人間。
人間に近い容姿を持つ妖精が小人と呼ばれるそうだ。
伝説上の小人と言われると、ふと思い浮かぶのはコロボックルだろう。
コロボックルはアイヌ神話に登場する小人で、「露の葉の下の小人」と言う意味らしい。
コロボックルはアイヌと呼ばれる民族に伝承されていて
主に北海道や南千島、樺太に広く流布されている。
その中でコロボックルは、アイヌ民族が住み始める前の先住民で背丈が低く、動きがすばやい漁の上手い存在だったらしい。
自分の認識ではコロボックルの存在は精霊に近い物と解釈していたのだが、それはどうやら後世の物語等の影響が大きいようだ。
他に小人と呼ばれる存在は日本では有名な一寸法師が出てくる。
一寸法師は日本のお伽噺の一つで御伽草子に掲載された物が元になっている。
その中では、一寸法師は身の丈3cmとされている。
縫い針を腰に刺して刀にするぐらいであるから、それぐらい小さいのだろうと考えるも
3cmでは、普通に人から相手にして貰うどころか、見世物になっておしまいな気もする。
だが、一寸法師の話は昔話で話されている一般の一寸法師よりも
御伽草子に掲載されているのは少し現実的な話らしい。
まず、一寸法師は一向に成長しない身体をコンプレックスに思って家出する。
(どうもネガティブ王子だったらしい。)
家出して京に渡り、宰相の娘に一目惚れする。
そこで一寸法師は自分の小さな身体では姫を妻に出来ないと思い込み一計を案じる。
(さすがネガティブ王子は腹黒である。)
まんまと罠にかかった宰相と姫は一寸法師に騙されて疎遠になり
一寸法師と姫は共に宰相の家から家出する。
(一寸法師的には、しめしめである。)
その旅先で不気味な島につき、鬼に出くわした。
鬼は一寸法師を食べるも一寸法師は鬼の目から逃げ出してくる。
(食べられては目から脱出と言う不気味なループがしばらく続く。)
根負けした鬼は「今日はこの辺にしといてやるぜ!」と
打ち出の小槌をほり投げて逃げる。
(鬼の威厳がまるで無い。ちんぴらA状態である。)
一寸法師の武勇伝は世間に広まり
(と言うか自分で広げたんだろう。まさに策士である。)
そんでもって帝に取り入って中納言まで出世するのである。
自分的解釈が有る程度入っているが、それでもクリーンな話では無い。
どちらかと言えば一寸法師は今風のサクセスストーリーだったみたいだ。
そして世間一般では有名な妖精としての小人。
ドワーフ、トロール、エルフ、フェアリー、ホビット、スクナビコナあたりだろう。
ドワーフは北欧やドイツ語圏に住む小人で、物語や伝承によって異なるも
統一されているイメージは背が低くて屈強で長い髭がある事だろうか。
北欧神話では、神々と対立する存在でありながら対価に応じて魔力のある武器や宝具を作る職人に位置する。
童話の白雪姫に登場する7人の小人は英語ではドワーフと訳されている。
民間伝承のドワーフでは立った姿勢のまま腕が地面につくほど長いらしい。
あの有名な指輪物語でも有名なドワーフは鍛冶屋であり、屈強なヒゲのおじさんのイメージがつよいみたいだ。
続いてトロールはスカンジナビア半島に住む小人の妖精で丘や土手、塚などに住む。親切だが盗癖がある困ったちゃんだそうだ。
ノルウェーの伝承で登場する要請の一種で、様々な説が存在する。
その中でも鼻や耳が大き醜い存在らしい。
しかし、一般的なイメージでは小人のイメージよりも巨漢で怪力な知能の低いイメージが定着しているトロール。
今でもトロールの存在はノルウェーでは信じられている事が多く、日常でふと物が無くなると「トロールのいたずら」と言うそうだ。
エルフとフェアリーは個人的に小人と言うよりも妖精としての認識が大きく、世間でもその認識が強い。
しかし、森の小人として存在する事も多い存在だ。
そう言った認識では、小人とエルフ・フェアリーの定義は曖昧なのかも知れない。
ホビットは架空の種族である。
J・R・R・トールキンの作品「ホビットの冒険」や「指輪物語」に登場し
身長は60~121cmで平和と食事をこよなく愛する種族だ。
ホビットたちは、トールキンのインスピレーションである英国の田舎の人々と同様に酒場でエールを飲む事を好むそうだ。
そしてスクナビコナである。
スクナビコナは日本神話に登場する神である。
古事記と日本書紀では若干違いが生じるが、身体が小さくて敏捷、忍耐力が有り、大国主と協力して国を造ったとされる。
一説には知恵の神とされ、医療、医薬の知識に優れていたそうだ。
小人と呼ばれる存在は多種多様で、一般に認識しているイメージは
人間よりも小さい存在である。
しかし、その小人と呼ばれた存在は様々な伝承や説話や物語に登場し
それらの世界で重要な役割を果たしている。
世間的なイメージとは違う一面を持つ小人達の存在に興味が増すばかりだ。
とりあえず、ヤスボにとってk-stord小人と言う存在は
せっせとヤスボの代わりに仕事をこなす様な可愛い存在では無く。
一寸法師のような腹黒い存在である事は間違いないだろう(笑)
[ 14:38 ]
[ 思いつき98%な日記 ]
とある日、ふと耳にした曲に
不意打ち的に心を揺さぶるかのよう
感情と言う波が自分に押し寄せた。
思い出の曲が流れる度に
なぜ人は懐かしさを覚えるのだろうか
その時の感動を鮮明に思い出す時もあれば
ただ懐かしいと感じるだけの時もあるが
その曲を感じるだけで
なぜかココロの底から熱くなり
鳥肌が立つ。
人には思い出がある。
それは自分と言う人生の記憶で
そこにあるひとつひとつの想いが今の自分を作り上げた。
そして自分という存在が生きてきた中で思い出深い曲は必ず存在する。
曲に記憶が刻み込まれ、その曲を聞く度に過去への扉が開く。
その想い出は、楽しい事だけで無く、辛い事も悲しい事もある。
それでも、その曲が流れる度に懐かしいと感じてしまうのは
過ぎ去ってしまった時間だと自らが実感しているからだろうか。
人は曲を、歌を奏でる生き物で
そこには作り手、歌い手、聞き手、それぞれに想いがあり
それぞれが記憶を刻み込んでゆく。
懐かしい曲を不意にした時、ふと無意識に流れ出す涙。
素直にその想いを受け止めて、懐かしんだ。
あの時には、もう戻れないけれど
それでも後悔はしていないと、自分に言い聞かせて
今の自分に満足はしていないけど
過去の自分に向かって自分は微笑みかけた。
今の自分も決して悪くはないと。
不意打ち的に心を揺さぶるかのよう
感情と言う波が自分に押し寄せた。
思い出の曲が流れる度に
なぜ人は懐かしさを覚えるのだろうか
その時の感動を鮮明に思い出す時もあれば
ただ懐かしいと感じるだけの時もあるが
その曲を感じるだけで
なぜかココロの底から熱くなり
鳥肌が立つ。
人には思い出がある。
それは自分と言う人生の記憶で
そこにあるひとつひとつの想いが今の自分を作り上げた。
そして自分という存在が生きてきた中で思い出深い曲は必ず存在する。
曲に記憶が刻み込まれ、その曲を聞く度に過去への扉が開く。
その想い出は、楽しい事だけで無く、辛い事も悲しい事もある。
それでも、その曲が流れる度に懐かしいと感じてしまうのは
過ぎ去ってしまった時間だと自らが実感しているからだろうか。
人は曲を、歌を奏でる生き物で
そこには作り手、歌い手、聞き手、それぞれに想いがあり
それぞれが記憶を刻み込んでゆく。
懐かしい曲を不意にした時、ふと無意識に流れ出す涙。
素直にその想いを受け止めて、懐かしんだ。
あの時には、もう戻れないけれど
それでも後悔はしていないと、自分に言い聞かせて
今の自分に満足はしていないけど
過去の自分に向かって自分は微笑みかけた。
今の自分も決して悪くはないと。